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フィリアホール:河村尚子ピアノ・リサイタル [音楽時評]

6月16日,これまでお金を払って,3日もサントリーホールに,レベルの低いヘンシェル・クァルテットを聴きに通った愚行を吹き払いたい気持ちで,フィリアホールへ河村尚子のピアノ・リサイタルを聴きに行って来ました.

こちらは今まさに伸び盛りの感じで,快演を聴くことが出来ました.将来がますます楽しみです.

今夜のプログラムは,
モーツアルト:    ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調 K.332
シューベルト:    幻想曲ハ長調Op.15,D760「さすらい人幻想曲」
            ※※※※※※※※
メンデルスゾーン:「無言歌集」より 「浜辺で」Op.53-1
                                             [浮雲」Op.53-2
シューマン:    「フモレスケ」変ロ長調Op.20
でした.いかにもお得意の曲が並んでいました.

彼女と並走している小菅優が,既にベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全曲演奏会の1/4位にあり,今秋にはモーツアルト後期ピアノ協奏曲連続演奏会をコツコツと積み重ねようとしているのに,河村尚子は,それらは先送りして,マイペースでシューベルトやシューマンの名曲,そしてピアノ協奏曲の名曲,ベートーヴェンの3~5番やグリーグ,シューマン,ブラームス,ラフマニノフなどの協演要請に応えているようです.

この自然体が彼女らしいところなのでしょう.
しかし,一面では,ピアノ伴奏者の経験を積もうとして,トッパン・ホールでソプラノのエルツェを迎えたリートの伴奏と,チェロのハーゲンの伴奏が予定されていますから,リパートリーの拡充と共に着々と経験を深めているようです.

モーツアルトのK.332は有名なトルコ行進曲付K331に続けて書かれた傑作です.Allegro/Adagio/Allegro assai の3楽章構成で,ダイナミックな両端楽章に流麗な緩徐楽章が挟まっています.まことに清々しい好演でした.
ただ,最終楽章の前に,ピアノに置いたハンカチを取って,汗を拭い,次に鍵盤を撫ぜたのですが,ボンと音を出してしまったのは,あってはならないミスでした.


シューベルトの幻想曲は,allegro confuoco ma non troppo/Adagio/Presto/Allegro の4楽章を持ったソナタといえます.第2楽章の主題が歌曲「さすらい人」によっていることから「さすらい人幻想曲」と呼ばれています.同歌曲の伴奏部から取られた主題が4楽章を通じて現れる,後に循環形式として確立する手法を取っています.そのため緊密な構成となっており,4つの楽章は続けて演奏されます.たいへん見事な好演でした.

メンデルスゾーンの無言歌は文字通り歌詞のない歌ですから2つの小曲が非常に綺麗に歌われました.

シューマンの「フモレスケ」については,私は彼女が新宿の朝日文化センターで,この曲の内容を解説して,全曲を演奏したのを聴いたことがあり,たいへん懐かしく聴いていました.
およそ30分を要する大曲で,フモレスケとは、喜び、悲しみ、笑い、涙など、様々な感情が交差したような状態をいい,シューマン自身は「ドイツ人に特有な〈情緒的と知的とのたくみな融合〉」といっているそうです.
大きく変化に富んだ5部に分かれますが,切れ目なく演奏されます.なかでは第3部の叙情的な部分が印象的です.すっかり河村尚子の十八番になったようで,うっとりと聴き惚れていました.

 


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サントリーホール:ヘンシェルQ連続演奏会を批判する [音楽時評]

6月15日,サントリーホール・ブルーローズ(小ホール)にヘンシェル弦楽四重奏団の4日目を聴きに行って来ました.2,3日目にに続いて3回目です.

演奏についてですが,メンバーは,
第1ヴァイオリン:クリストフ・ヘンシェル、
第2ヴァイオリン:ダニエル・ベル
ヴィオラ:モニカ・ヘンシェル
チェロ:マティアス・バイヤー=カルツホイ

プログラムは,オール・ベートーヴェンで,
弦楽四重奏曲 変ロ長調 op.18-6
弦楽四重奏曲 変ホ長調 op.74 「ハープ」
弦楽四重奏曲 イ短調 op.132  
でした.ここでも,前期,中期,後期が並んでいました.

特に後期のop.132は,かなり自由なスタイルで,5楽章構成をとっています,最終日に予定のop.131は,さらに7楽章構成ですが,そこでは,間を置かず全楽章続けて演奏されます.

間に4日リハーサル可能な日が入った4夜目も,演奏の問題点は変わりませんでした.第1ヴァイオリンの余計な音はいくらか減っていました.しかし,チェロの図太い音と音程の怪しさは全く変わりませんでした.
いったい誰が,何故,このレベルの低いヘンシェルに何を期待して,この全曲演奏会を企画したのでしょう!

第2ヴァイオリンというのは,弦楽四重奏の全体を把握できる立場にあるのですが,その人が,ヘンシェル姉弟の1員だったのに,一種の神経症に陥り,旅行に耐えられなくなって,オケに転向したあとにダニエル・ベルが入ったそうですが,結成4半世紀を迎えようとするヘンシェルのアンサンブル問題の犠牲になったのではないか,と憶測したい気持ちです.

作品18は,実際には最初の作曲が第3番でその後第1番、第2番、第5番、第6番、第4番の順だったそうです.ですから,第6番は決して初期の最後ではないのですが,第2楽章のホッとするような安らぎを感じさせる美しい旋律が聴かせました.

第10番は「ハープ」と呼ばれていますが,第1楽章で現れるピチカートがハープの音のように響くところから付けられたといいます.第2楽章では,ベートーヴェンらしい心に余裕を持った哀感が,ゆったりと表現されます.第4楽章では変奏曲が6つ現れ,高まりを見せますが,穏やかに終わります.

第15番は,作曲されたのは第12番に続いてでしたから正しくは13曲目の弦楽四重奏曲です.第12番の完成に引き続いて作曲されたエネルギーに満ちた作品ですが,後期の多楽章弦楽四重奏曲へ足を踏み入れた第1曲目で,5楽章形式となっています.
第1楽章は,静かにチェロから始まり次第に和音が重なるピアニシモで美しいハーモニーの序奏です.3夜聴いたなかで,辛うじて聴けたクァルテットならではのアンサンブルでした.

この曲の中心は,「病より癒えた者からの神への聖なる感謝」と書かれた第3楽章で,コラール風のハーモニーが続き、まさに祈りの Adagio と呼ぶに相応しい美しく深い音楽が続きます.ここでは特にヴィオラの美音が印象的でした.やがて「新しい力を感じて」のAndanteに転じて生き生きと演奏されます.
祈りと感謝の第三楽章の次に行進曲風の元気な第四楽章が入りますが,楽章の終わりに哀しみのメロディが入り,最終楽章の悲しみの歌へ移ります,悲しい旋律ですがこれはもともと交響曲第九番の最終楽章で使われる予定だったものです.そして,最終楽章の最後の2小節がフォルテシモで閉じられます.

この曲でも第1ヴァイオリンとチェロは良くありませんでした.
ヘンシェル・クァルテットが,これからどう推移するのかが気がかりです.現状維持なら,2度と聴く気になれません.

ご参考までに,Washington Post 紙の2年前の Music Review を掲載しておきます.ここでは,第1ヴァイオリンの弱点を挙げ,名手のチェロの焦燥感を指摘して,ヘンシェルQの存続に疑問を呈しています.
サントリーホールは何も調べずに麗々しく宣伝して,聴衆を欺いて,招聘したのでしょうか?

In review: Henschel Quartet

Web-only review:

 

Siblings show uncertainty in Henschel Quartet program
by Robert Battey

The Henschel Quartet, a youngish German group including three siblings, is a most peculiar ensemble. Its performance Wednesday at the Library of Congress raised a host of questions. The group has been coached by the highest-level artists, has won prizes at major international competitions, and now apparently has a viable career. But given the individual instrumental problems on display in a program of Schumann and Barber, one has to wonder what the future holds.

I have never seen a professional violinist so ill at ease on the instrument as the Henschel's leader. His vibrato sometimes sounded like an intermediate student's -- so tense and inconsistent as to be functionless. His herky-jerky bow destroyed any semblance of legato, and he could not execute a proper spiccato. From the opening notes of Schumann's First Quartet, it was impossible to tell which stresses and accents were the composer's and which resulted from technical glitches. His two siblings suffered from all of these problems, but to a lesser extent.
(read more after the jump)

The Henschel's cellist (the non-sibling) is a fine, well-schooled player, and I can't imagine the frustration he must feel. Although the group somehow plays fairly well in tune, their respective idiosyncrasies with the bow make the matching of sound and attack a futile proposition. Their rendition of Barber's famous "Adagio" was like a scene from Beckett -- empty gestures and existential musings lacking any sense of direction.

They did give a humdinger of an encore, though: a movement from a quartet by Erwin Schulhoff, sort an if-Bartok-had-been-Jewish hoedown.

-- Robert Battey

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By Anne Midgette | April 16, 2010; 6:04 AM ET

 

序でにNew York Times のMusic Review の1節を引用しておきますと,

These players — Christoph and Markus Henschel, violinists, and Monika Henschel-Schwind, violist (they are siblings), and Mathias Beyer-Karlshoj, cellist — moved easily among the four composers’ styles. But the most transfixing aspect of their performance was a hefty tone, both individually and as an ensemble. In solo passages, each produced a seductively buttery timbre, and throughout the performances Mr. Beyer-Karlshoj drew a sound so uncommonly fat that his instrument often sounded more like a double bass than a cello.  


各パートの音が濁っていたが,とりわけチェロはコントラバスのように響いたとあります.


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