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オペラシティ:ゲルネ(br)withエマール(pf)リサイタル(+追記) [音楽時評]

10月11日,ソワレでオペラシティのマティアス・ゲルネ(バリトン)が有名ピアニスト,ピエール=ロラン・エマールの伴奏でベルク,シューマンの歌曲を歌うリサイタルに行ってきました.

プログラムは,                                                     ベルク:    4つの歌曲 op.2                                                                     シューマン:  歌曲集《女の愛と生涯》 op.42  
               ※※※※※※※※                                                                             シューマン: リーダークライス op.39                                                               でした.

ゲルネは,今や世界的に多くのホールやオペラハウスから招聘されているバリトン歌手ですが,そのホーム・ページに唱われているように,温かく流麗なバリトンの声と深い楽曲解釈で多くのフアンを惹きつけている人です.

ベルクは初めて聴きましたが,ベルク初期の作品で,限りなく無調に近づいており,4曲中最後の曲には調性記号がないそうです.字幕スーパーを見て驚くような歌詞を,抑揚の厳しい旋律で歌い回していました.                                                    ただ,4曲のあと,そのままシューマンの歌曲集《女の愛と生涯》に移ってしまったので,ベルクを噛みしめる余裕がありませんでした.拍手が入らなかったからといわれればそれまでですが,ちょっとでも4曲の終わりのゼスチャーを明示してくれたらと残念に思いました.

歌曲集《女の愛と生涯》をバリトンで聴くのは初めてでしたが,未だ家父長的権威のしがらみの強かった時代の詩に作曲されたことを考えると,やはり女性歌手が歌った方が相応しいのではないかと考えます.「女の愛と生涯」を同時代のオペラに置き換えて考えて見れば,それは明らかなのではないでしょうか.                                                           しかし,ゲルネの温かく流麗なバリトンの歌唱は,確かに見事にこの曲,詩の意義を歌い上げていたと思います.

休憩後の「リーダークライス」はちょっと失望しました.何故かといいますと,さりげなく楽譜を低い角度で開かれたピアノの天蓋の上に斜めに置いて,1楷の客席からは見えない形で譜面を見ながら歌っていたからです.                                                        ゲルネはよく顔を左右に動かして感情表現をスル人ですが,この曲ではもっぱら右向きで,時々正面を向くのですが,それでも,表現がやや一本調子になって,「女の愛と生涯」で見せたほどの深みのある表現力を感じられなかったのです.                                              このソワレではこれがメインではなかったかと思うのですが,その意味では,この大物2人を揃えた折角のリサイタルの興趣を削いでしまったと思われて残念でした.                     どうせなら堂々と自分の斜め前にでも譜面台を置いて歌っていたら,ずいぶんマシだったのではないでしょうか.

アンコールには,シューマン:歌曲集「ミルテの花」op.25より第24曲:君は花のごとく と 第1曲:献呈 を歌ったそうです.

なお,エマールの伴奏はピッタリ寄り添ってまことに素晴しいモノだったと感じました.

 

追記:---                                                      この日の曲順が時代を逆さまにしていたことと,ロマン派ドイツ・リードへの男性歌手と女性歌手のクロスオーバーについて付言したいと思います.                                    かつて,「シューマンの『女の愛と生涯』は、ある女性が恋をし、結婚し、子供を産み、しかし若くして突然夫に先立たれるという8曲からなる歌曲集で、女性歌手なら一度は歌いたい、そして男性歌手には絶対に歌えない名曲です。」と曲目解説されていたモノに,男性が入り,シューベルトの歌曲集に女性が入るようになって,クロスオーバーが起きているのです.

それは基本的には,ロマン派に花開いたドイツリードが,新ロマン派(20世紀前半まで)で行き詰まって,以後不毛化してしまったことにあると思います.

限られたドイツ・リードを歌手が奪い合いをすれば,女性,男性の従来の役割分担は無視されることになるからです.                                                       ボストリッジのようにオペラの出番が少なければ,新ロマン派のヴォルフその他にどんどんレパートリーを広げていますが,オペラでも売れているゲルネは,プロモーター側の意向もくんで,大ホールにも聴衆を集められる名曲に挑んだ,と考えられるのです.                                   それでも,新しいベルクを入れたのですが,それは冒頭にしか入れようがなかったと理解される,というのが私なりの解釈です.

追記2:---                                                      丁度,時期を同じうして,New York のWeill Recital Hall で,フランスの名ソプラノ Sandrine Piau が学術的,芸術的な試みを発表したそうです.                             the superb French soprano Sandrine Piau explored the “mysteries and dimensions of womanhood” とあります.                                        私は20世紀後半にリードがほとんど死に絶えたと書きましたが,その理由について説得的に考えさせる興味深い企画です.  

男性詩人が生涯をかけて詩を書き,そこから歌曲が生み出されてきたのは,男性にとって女性が mysteries であり,dimensions of womanhood, 女性の多様性,多面性が分らなかったからだというのです.                                                           “mysteries and dimensions of womanhood”: a bountiful topic that has kept male poets busy for centuries and provided texts for innumerable songs. Most of the works she performed are also featured on “Évocation” (Naïve), 

Sandrine Piau は,加えて男性がまことにナイーブであったからこそ,“mysteries and dimensions of womanhood” の女性に対する憧れの詩が数多く作られ,それが同じくナイーブだった作曲家によって,歌詞,歌曲になったという仮説を提起しているのです.

現代社会になって,女性がmysteries を薄め,Dimensions, 多様性,多面性への理解にも前進があったとしたら,従前のような詩は作られなくなり,作曲すべき歌詞が乏しくなり,作曲家のナイーブな意欲も失われたというべきではないでしょうか.

簡単にクロスオーバーしてしまうところにも,“mysteries and dimensions of womanhood” が見失われ,男性のナイーブさも薄れてしまったことが現れており,そこから見てもリードの死滅は同時進行的な必然の帰結というべきなのでしょう.        

 

 

 


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